2014.07月新垣勉「白いユリの花の咲く頃」
梅雨が明けて本格的な夏に入ったこの時期に武蔵嵐山を少し歩いた。菅谷館跡に山百合が咲いて いるとの情報を得て、炎天下の「歩こう会」となった。この百合は例年7月20日前後1週間だけが見 頃なので、これを見るにはこの炎天を出掛けるしかないのである。武蔵嵐山駅を10時前に出発したのだが、既に気温・湿度ともに相当なものであった。まず最初は 広大な国立女性教育会館を左に見ながら金鶏神社へ向かう。この女性教育会館は民社党時代の国の 事業仕分けでやり玉に挙げられていたが、今は無駄なく運営されているのだろうか?
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金鶏神社、安岡正篤記念館、郷学研修所は看板の説明が判りやすいのでこれを掲載しよう。
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安岡正篤記念館はひっそりとしている。 菅谷館へ通じる近道
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金鶏神社
ここで安岡正篤について少し触れておこう。 ……………………………………………………………………………………………………………………… 安岡正篤(まさひろ)と金鶏神社 安岡正篤は大正、昭和の陽明学者・思想家。 <明治31年(1898)-昭和58年(1983)> 安岡は大正11年頃盛んだった西欧の影響を受けた大正デモクラシーに対抗して、王陽明の陽明学 に根幹をなす東洋思想、日本主義を説き一部の華族、軍人の共感を得る。大正15年に私塾である 金鶏学院(右翼団体、愛国団体とされている)を開き、軍人、華族、官僚に教化活動を行った。 更に埼玉に日本農士学校を開校して論語による農本教育をおこなった。ここから斎藤実、岡田啓 介、吉田茂(首相の吉田茂とは別人で厚生相、軍需相を務めた)、広田弘毅等が出て注目された。 また2.26事件の首謀者西田税にも影響を与えた。更に山本五十六、八代六郎、蒋介石等とも親交 があったという大思想家である。(Wikipediaによる) 終戦後は、GHQによりこれらの団体は解散させられ公職追放された。自民党の中では吉田茂、 池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳等が安岡を師と仰いだほか、財界でも三菱、住友、近 鉄グループや東京電力などの財界人がその思想に共鳴している。戦後日本の最有力の黒幕の一人 と言われている。 山田方谷 安岡正篤
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我が郷土の英雄である備中松山藩の山田方谷も陽明学者であるが、方谷は王陽明の儒学、陽明学 とともに朱子学も学びその利点・欠点もよく理解し、「陽明学の利点は、我が心が得心している のかを問うて人間性の本質に迫ることができ、道理を正しく判別でき、事業においては成果を出 すことができる。しかし、私欲にかられた心で行為に走ると道理の判断を誤ることが多いという 欠点があった。よって、先人達の教訓や古典から真摯に学び、努力することが求められる。」と 弟子には陽明学を勧めず、むしろ朱子学を教えた。 余談ではあるが、この山田方谷をNHKの大河ドラマ化する運動があり、小生も様々な方にその 実現のための署名活動をしておよそ800名の署名を得て、郷里岡山の活動家に送り全国では60万 件を超える署名を得て国会議員とともにNHK会長(松本会長)へ提出したが、いまだにその成 果は得られていない。 一方、安岡正篤は大正・昭和の思想的指導者であったが、方谷が見抜いた陽明学の欠点を顧みず 政治家、軍人、財界人にこれを教え込み、それらの黒幕的存在であったため戦後にGHQから糾 弾されて同上学校などは解散させられた。だが現代でも彼の思想の信奉者は多く、最近は彼の書 籍も多く出されている。 安岡正篤は退廃する日本を憂え、そして人のあり方をこう説く。 「人間教育もとんだ間違いをしていて、学校に預けさえすればいいと思っている。だが、やはり 根本は家庭教育であり、その家庭教育の基本は愛と敬である。愛ばかり強調されることが多い が、実際は愛だけでは育たない。人間の人間たる所以は愛と同時に敬というものの存在である。 敬という心によって、人は初めて進歩向上するのである。そして人間は恥を知らなくてはいけ ない。」 昭和の黒幕と言われようが、現代の日本人に欠けた事を的確に指摘している。彼の思想をより知 りたいなら「運命を創る プレジデント社 (1985/11)→活眼活学 PHP研究所 (2007/5/)→経世 瑣言 致知出版社」と読まれると良い。 この「人間は恥を知らなくてはいけない」と同じ言葉が、この菅谷館跡に隣接する大妻嵐山高の 校庭にある同校創設者である大妻コタカの銅像に「恥を知れ」と刻まれている。これは九段、多 摩等の同大学にも同じ言葉とともに生徒に睨みを効かして鎮座している。 人前で子供の様に泣き叫ぶ政治家や、電車の中で化粧をして平然としている女性、平然と公共の 面前で嘘をつく議員などなど「恥を知らない」者があちらこちらに溢れているが、やはり戦後人 間教育(家庭教育も含めて)はここまで来ると、どうもおかしいと思わざるを得ない。 安岡の孫である安岡定子は、大妻高校などの道徳の時間に論語を今でも教えている。余談だが、 安岡正篤は占術で知られる細木数子が銀座のママをしていた時に知り合い、安岡85歳、細木45歳 であったが結婚誓約書を書き、細木がそれをもとに婚姻届けを提出する騒動を起こした。安岡の 親族が婚姻の無効を主張して籍は抜かれて事無きを得た。安岡はその1983年12月に死去した。 安岡はこの日本農士学校のあった地の金鶏神社に祭られている。 ……………………………………………………………………………………………………………………… 武蔵嵐山は日比谷公園や明治神宮を作った埼玉の偉人の一人である本田静六が、京都嵐山に似て いる渓谷があることから名付けたものである。(埼玉の三偉人は塙保己一、渋沢栄一、荻野吟子) 嵐山史跡の博物館 菅谷館跡にある嵐山史跡の博物館に立ち寄って比企地方の城館跡群や畠山重忠に関する資料など を見る。
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菅谷館跡
畠山重忠
……………………………………………………………………………………………………………………… 坂東武者の鏡と称賛される畠山重忠は、長寛2年(1164)に現在の深谷市畠山の地に生まれた。 源頼朝が伊豆の石橋山に挙兵した時、重忠は父重能が平家に仕えたため平家方に属したが、後に 頼朝に仕えた。宇治川の合戦や一の谷の合戦、あるいは奥州藤原氏の征討などで多くの手柄をた てた。この菅谷館(すがややかた)こそ鎌倉幕府の有力御家人となった畠山重忠の館である。 重忠は武蔵七党(平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心とする同族的武 士団の総称で、 横山党、児玉党、猪俣党、村山党、野与党、丹党、西党のこと。「高麗川ふる さと遊歩道」の時にも触れた) の児玉党と丹党の争いを調停して地元での信望も厚く、頼朝か らも信頼されていたが、鎌倉幕府内部抗争に巻き込まれ、北条が流したニセ情報に惑わされ少人 数で"いざ鎌倉"と菅谷館を発して鎌倉に駆けつける途中、武蔵野国二俣川で北条時政の大軍に囲 まれ謀殺された。(元久2年・1205年、重忠42歳の若さであった) 長享の乱<長享元年(1487)〜永生2年(1505)>は関東管領山内上杉家の上杉顕定と扇谷上杉家の上 杉定正が関東管領職を争った乱で、長享2年(1448) 6月に須賀谷原(菅谷原、この辺りの地名) 合戦が行われた。実蒔原(さねまきはら)・須賀谷原・高見原(小川町)での3合戦とも扇谷上 杉定正が勝利したものの、結局は各上杉氏(宅間・犬懸・山内・扇谷)の抗争に過ぎず上杉の 衰退を招き、後北条の祖である北条早雲(長氏)の関東進出を許してしまう事になる。 鎌倉、室町、江戸の長きに亘って栄えた上杉氏はもともと京都の公家であったが、鎌倉幕府の征 夷大将軍として宗尊親王が鎌倉へ建長4年(1252)に下る際に藤原重房が介添え役として同行し たが、重房はそれ以降公家から武家に転じ上杉重房と名乗るようになり所領も丹波国何鹿郡上杉 荘(京都市綾部市上杉)に賜った。武家の名門上杉氏の始まりである。他方、北条早雲は備中荏 原荘(現在の岡山県井原市)から出た戦国武将であったが、一時関東に大勢力を築いたものの秀 吉の小田原征伐で絶えることになる。 後に山内上杉憲政は天文15年(1546)の日本三大夜戦と呼ばれる河越夜戦で後北条に大敗し、永 禄4年(1561)越後の長尾景虎を頼り関東管領職と名前も譲った。これ以降上杉景虎(謙信)となる。 ……………………………………………………………………………………………………………………… ここからは暫く山百合にうっとりして頂こう。
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この13万m2の広大な敷地は高温多湿で今の時期は居心地は最悪である。「オオムラサキの森活 動センター」を少し訪問して、早々に引き揚げてた。 虎の尾
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蝶は飛んでいなかった。
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本郭に立つ謎の石塔
郷学研修所関連のものらしく物議を醸している。
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